辺野古訴訟における福岡高裁那覇支部判決に思う。

9月16日、国が訴えた基地移設計画を巡る訴訟裁判の判決が福岡高裁那覇支部(多見谷寿郎裁判長)で言い渡されたという。
 承知のように、その内容は全面的に政府の見解を追認し、沖縄県翁長雄志知事)が承認取り消しの撤回に応じないことは違法だとの判断が下された。
 この判決を後押ししたのは、時の政権=行政の論拠であり、法的な分権のもとに、政府と沖縄県の両者の間に立った、法的分権としての司法見解とは程遠い判断と言えよう。
 そもそも、司法は、行政の根拠とする内容と、それに相対する地方自治体・住民が主張する意見とその根拠に対して、話し合いの土台となる提案と調整の軸を明らかにすることが求められている。もし裁判所が、単に政府の方針を追認するだけの、“法的露払い役”に成り下がるなら、もはやそれは、3権分立を旨とする民主主義の司法とは言えまい。
 今回の高裁那覇支部の判決は、最終判決ではない。沖縄県の反発は必至であり、次の法的手続きや裁判が始まるだろう。もし、政府が、今回の判決を法的な盾にして、現地の工事を強行するならば、沖縄県民の激しい反対闘争に遭遇するだろうし、その際に不幸な衝突と憎しみが増長することは目に見えている。こうしたやり方が、民主主義とは程遠いやり方であることを政権とその施策に賛同する人たちに伝えていく必要がある。行政と司法がグルになり、沖縄の声を封殺することを許すわけにはいかない。こうした流れについては、実は本土の私たちに問われ突きつけられている問いではないか?と思う。
 私は、沖縄県民ではないが、今回の政府のやり方や司法の判断に対して、強い憤りを覚える市民の一人です!
 沖縄の人たちの、基地を無くして欲しいという願い、これは当たり前の平和を希求する市民の声です。普天間基地の危険を除去する必要性・緊急性と、新たに沖縄辺野古に新飛行場を作る案が不可分に結びつけられている現在の基地移転策には、「唯一の解決策」としての根拠はない。これは押しつけです。
 むしろ、他の方法を見つけられない、現在の諸政党案の貧困をさらけ出していると考える。
何故、沖縄に、また新しい基地を作ることしかできないのか?そこを考え、基地のない世界を展望する平和政策を導き出す勇気も能力も持ち合わしていないのではないか?
 私たちは、学校教育で、平和教育を受け、日本の平和憲法を維持していくことの大切さを学んできたのではなかったか?
 今、沖縄が抱えている基地問題の現状を考えるとき、本土に住む市民の立場が問われていると考える。戦後70年、日本は平和を享受し、経済発展の恩恵を受けた。しかし、沖縄に象徴される基地問題を考えるとき、本土のエゴが如実に現している問題としてこの問題をとらえることができると思う。
 沖縄は、新たな司法当局からのしっぺ返しに対して、困難な抵抗闘争を始めていくだろうと思う。その際に、民主主義の根幹を守る戦いとして、沖縄の運動に連帯していくことが、本土の私たちのとるべき立場であることを、痛感します。