無駄なものをどう評価するか?

正月の空

昨日の夜、有名学者さん達と爆笑問題が飲み会的に議論を戦わせる番組があり、夜間の放送ですが興味深く聞かせて頂きました。
それぞれのジャンルでは、権威と言われている学者が集まっているので、違った立場からの発言が重なり、それに太田君たちが”茶々”を入れるので話題の展開もめまぐるしく、楽しませて頂きました。
そこはもう少し議論を深めて欲しい場面で、あっさり通り抜けられたり、意外な方向に話が進んで行ったり…面白い話題が多かったのですが、物事の見方によってはこれだけの結論の出し方が変わることに驚きました。


太田氏の切り口は、どちらかというと自分の考え方見方をどこまでも認知させようという意思が見られ、少々強引な議論の進め方があるのですが、権威ある?学者さん達が相手でもその社会的な立場に関係なくものを言うことが出来る点では他の芸人ではまねが出来ない発言が多い。そういう点が、聞いている者に新鮮味を与え好感を抱かせる。
しかし、時には強引な切り口が反発を招くこともある。・・・しかし、彼の良いところが、一旦発言したからには、どこまでも自分の発言にこだわろうという論理展開を常としていることです。そこまで言うか?という疑問が出てくるまでに発言に拘り、相手の意見修正を求める態度が、日本人には欠落しているディベート形式のコミュニケーション能力を示唆しているように思える。そこが彼の売りなんでしょう。


太田君のことはこれくらいにして、昨日の話の中で、意味のないもの、無意味なものに対する評価についての話があったと思う。
地球環境や世界には、常に無駄なもの、意味が認められないものが多く存在し、それらの価値をどう評価するのか?という問題が問われることがある云々・・・
これに対して、一方では全てが有効で、意味のあるものにより指導され、それにより体系化されて進歩させる必要があるという考え方がある。
これは、人間にとって有効であると思われるもの、それは個々の人間にとって違ってくるが、それの最大公約数が地球の未来を制するという考え方に行き着く。
この考え方は、基準とする軸をどこに置くのか?で時には非常に危険な発想が出てくる可能性が危惧される。


他方で、無駄と思われるもの、意味がないと言われている物にも実は何らかの役割が存在するはずであるという考え方がある。
例え、ある時点でまったく有害で無意味であると結論付けられるものであっても、時代が変わり、環境条件が変化すれば、価値判断を一変させる意義を持つ者があるのではないか?という考え方です。
この二つの考え方は両極端ではあるが、結論的にはそれら二つのものの考え方がある意味では成り立つわけであり、どちらが優劣を持つとも言えないでしょう。
・・・あくまでも、ものの考え方という問題として、二つの考え方が存在し得ることと、ある特定の問題に対してどういう態度をとるべきなのか?については、それぞれの意見がよって立つ主張の根拠にもよる。
これは、どちらが正しいか?という問題でもないようです。


あくまでも、ものの考え方として、そうした対局する考え方が存在し得ることを知ることが大切に思えます。
そのことにより、より他者の考え方に耳を傾け、自分の結論にかけていることを学びお互いが支え合うことが大切に思えます。


昨日の番組を聞くことにより、久しぶりに様々なものの考え方の在り方を学んだように思います。