厳しい老後を生き抜くために・・・・

no-mu2008-10-08

今朝の報道記事を紐解くと、サラリーマンの退職金が年々目減りし、金額が下降線であることが指摘されている。
金額にして、5年前と比べて400万円、10年前なら800万円の下降が見られるという。
金額的には平均で2026万円という数字になるが、実際には退職金そのものが得られない非正規雇用や請負などの職種に従事する人たちについてはこの統計では比較の対象となっていない。
また中小企業や零細企業では、大手の制度とはうんれいの差があることも事実です。

今回の調査は、就労条件総合調査と呼ばれ、2007年の1年間に定年を迎えた大卒社員の退職金(勤続20年以上、管理・事務・技術職)について計算されている。
ちなみに、高卒社員(勤続20年以上、管理・事務・技術職)の退職金は1606万円ということで大卒とはかなりの差が付いている。
また、一般現業社員については、1123万円という低額になる。
退職金の学歴による金額の格差は、こうして厳然として存在していることを確認せざるを得ない。
「退職金がある方はまだ良い。私たちはそんなものは無いし、あてにもしていない・・・」こう呟く人たちも、実際には社会に沢山存在する。
老後の生活を支えるためには、蓄えをどれくらい持っているのかがいざという時の大切な生活保証資金となる。ところが、退職金についてこのような格差が付いている現状を考えると、様々な不安が社会の中で拡大しているのではないか?と危惧する。

もちろん、ささやかな年金で慎ましく暮らし、健康でさえあれば世間の支援を請わずして過ごしていけるでしょう。
しかし、高齢になると、予想もしなかった病気にかかったり生涯のはんろとなる相方が急死したりするリスクは否応なしに高まるものです。いくら「平穏な老後」を願っていてもそのとおりに順調に年をとることはなかなか難しいことです。健康で長生きし、多くの家族たちに囲まれて大往生をする・・・こうした光景は、今や夢物語になろうとしている。

こうなると、元気なうちは働けるだけ働いておこう・・・こういう心理が働く。資産が使いきれないくらい貯蓄されている人たちにすれば、老後は趣味と娯楽スポーツ等を楽しむことが出来るだろうが、一般庶民ではとてもそうした気楽な老後は望めない。・・・ましてや、子供たちや孫への生活資金や教育資金の「融資」もせがまれれば拒否できないだろうし、当初は考えられないような支出も増える。そうなると、少しばかり貯蓄を蓄えておいても、どんどん目減りしてしまう。一般庶民がまじめに働いてそれなりの蓄えをしたとしても、いったいいくら貯められるというのでしょう?
また、蓄えたお金が20年30年の老後の中で、次第に取り崩され、大きな病気にでもなろうものならたちまち夢の藻屑となって消えてしまうのが現実ではなかろうか?

ある調査では、団塊世代に定年退職者のうち約85%が継続して仕事に就くことを考えているという。・・・給与の目減りピーク時の給与から何割かが差し引かれることなどがあるとしても、働けるうちはお金を稼いでおきたいという経済的要因がひしひしと伝わる統計がうかがわれる。

確かに、65歳といえばまだまだ体力的にも精神的にも社会の役になれる能力がある筈です。十分働けるのに、仕事に就くことが出来ないということは本人にとって大きなストレスとなるわけです。
たとえば、今までやりたかった趣味やスポーツなど老後にやっと実行できるぞ!と胸を躍らせている人ならともなく、多くの人達はただ漠然と家で気楽な毎日を過ごすことが続いてしまう。・・・こうした目的のない暮らしというものが、老後の暮らしにおけれ最大の老化リスクとなることは免れない。

・・・人生85年として、老後期間は充分20年30年の期間が残されており、それをどう使うのか?私たちに問われている大きなテーマがあると思う。
誰しも、出来れば家族や社会の支援を仰ぐことなく、慎ましくひそやかに、そして平和に過ごしたいと考えている。
しかし、そうした願いが、そのまま満足に達成される人は残念ながらほんの一握りかもしれない。健康上の管理をどれだけきっちり続けていても、絶対病気にならないか?というとそうとは限らないだろう。予期せぬ不幸にはだれしも出会いたくないが、自分が望まなくても突然それはやってくる。
「何が起こっても、自分はじたばたしない生き方をしよう」と思っていても、実際にその時になって落ち着いて生きていけるかどうかは分からないものだ。

一つ言える事は、年を重ねれば重ねるほどに、悩みや自分たちの思いをしっかり共有できる友人をたくさん持つことが大切なことだと思う。支えあい、語り合える人がそばにいることにより、自分の人生は一人では考えられない豊かさを維持してくれる源となる。ところが、サラリーマン時代に人を蹴落として競争に打ち勝つ生活を強いられてきた人間が、果たして人を思いやり人を互いに支えあって生きる・・・そんな生き方に大転換することが出来るのか?ここに最大の生き方を変える関門が控えていると思うのです。この生き方としての転換がない限り、言葉では理解しても実際に支えあいの社会を形成し地域で実行をしていくことは至難の業であると思う。
仕事柄、たくさんの頑固おやじさんをお世話することがあり、そうした彼らの人生が自らの老後を飾り気のない痛々しい味気のないものにしている現実を目の当たりにします。
もう少し心を開放して、家族に対してやさしい気配りを行い、身近な人たちに対して心配りをする生活をしていたら、もっと楽な老後が出来たであろうと思う。でも、人生の終末期に生き方を変える事は”ラクダが針の穴を通ることよりも困難だ”と思われる。・・・こうして、孤独で痛々しい生きざまが日本全国で展開されている。
それぞれの人生を、誰も引き受けてその人の代わりに操作することは出来ない。自分が人生の航海に対してかじ取りをするものである限り、出来れば家族や地域の人達と楽しく愉快に過ごしていくものでありたいと思う。