ある介護人の病死について。

no-mu2009-04-25

今朝、個人携帯電話に担当地区の病院看護師から緊急の連絡が入ってきた。
・・・こんな時間に連絡が入るのは良くない知らせだろうと予測していたが、やはりそうであった。担当利用者の介護人が、病死したとの連絡だった。
この介護人は、実は癌であることが3月始め病院受診により本人に告げられ、その治療のために3月末から病院にて入院をされていた。
通常、介護者が入院する場合、他の家族さんが介護を引き継ぎ担当することになるが、Sさんの場合夫婦どちらも親族として連絡可能な人を持っておられない。・・・こうしたケースは他にもあるが、お元気に過ごされている場合は何の問題もないわけであるが、いざ病気になり入院されて院内の介護や治療に関する相談、主治医とのやりとりなどが必要となるとき、本人以外の第3者が居ないと言うことで誰がその人の身元引き受けや重要事項の仲立ちになるのか?をはっきりさせなければならなくなる。

この場合、公的な権利擁護のための代理人となる人を依頼することになるが、そうした準備が出来ていない場合はどうなるのか?
今回のケースでは、生活保護受給世帯で夫婦どちらも身寄りがないことにより、生活保護のSWが最低限度の支援を引き受けざるを得ないこととなる。また、担当ケアマネジャーとして本来やる必要がないことについても支援をする必要が出来たりもする。

既に4月の始めから、病院より奥さんの様態が良くないこと、今後のことでご主人に伝えたいことなどが相談されたが、ご主人もこれまた重症の患者として別の病院に入院中であり、奥さんの病気のことで問いかけをしてもおそらく何も判断が出来ないのではないか?と危惧された。いわゆる認知度も低いと考えられる。従って、今後様態悪化などの事態になったときはまず担当SWとケアマネジャーに連絡を入れるようにお願いしていた。
先々週に別々の病院に入院しているご夫婦をそれぞれお見舞いし、お互いの状態の情報を届けてきたが、特にご主人の場合判断能力がかなり低下して此方の話していることが十分に伝わっているかどうかも危ぶまれる状態になっておられることが分った。
一方奥さんの方は、大腸癌の摘出手術は上手くできたが、他にも転移が確認されその治療もあって入院が長引くことと、心臓病も併発されているので常にドクターの観察が必要な状態であった。面談をしたときは、「病院での暮らしは息が詰まるので早く家に帰りたい」こと、夫の病状を心配して「いつになれば家にほうに夫をに戻したら良いのか?」等尋ねておられた。自らの病状が余命僅かであることは担当ドクターから告げられてはいたと思うが、諦めからなのか?元々楽観的感性なのか自分が近いうちに先に亡くなる可能性があることその為に何をしたらいいのか?理解が届かなかったようです。自分の運命の終末について考えられなかったことは、やむを得ないことでもあるが残念に思う。

「ご主人のことは私がきちんと段取りをしますから、ご自身の病気をしっかり治療して欲しい」と説明して、余分な心配をさせないように心がけたが、自分のそのような話し方で良かったのかどうか?ケアマネジャーとして今問い直している。・・・もっと病気を正面に据えて、死という局面についての具体的な相談にまで踏み込んでも良かったのかも知れないと思う。
奥さんとして、もっと話しておきたかったことや聞いておきたかったことがあったのではないか?そうしたことに、ケアマネとしては支援範囲を超えたことではあるが気持ちを広げて言葉を投げかけることで、精神的な不安を取り除くきっかけが出来たのではないか?等考えてしまう。
死を前にした最後の病室で、恐らく奥さんは不安で独りぽっちの精神状態の中で、眠っておられたのではないか?と考えると、改めて精神的なサポートというものが、現在の介護保険医療保険では全く補完出来ていないことを痛感する。人間は病気になった場合手術や服薬により命を長らえることが可能だが、精神的な痛みをそれらによって癒されることはない。心の空白を埋めるものは何か?それは普段忙しい生活に追われていると、ともすれば等閑になって忘れ去れれているが、実は人の生きる力の根源として絶やすことが出来ないエネルギーとして機能していることを知らなければならないと思う。

今後、利用者については病気の治療に専念して、回復が可能ならば特養などの入所を方向付ける必要がある。そこまで回復が出来ることが望ましいが、奥さんの訃報を聞いて、病状が悪化してしまうことも危惧される。奥さんの死亡をどう知らせるのか?については、担当ドクターの意見も吟味しながら本人に何らかの形で伝えることとなるが、慎重な情報提供をしていかないと、精神的な生きる繋がりが切れてしまうのではないか?と言うことが一番心配です。

利用者夫婦には子供さんも居られず、後のことを相談する誰一人も居られないので、本来は未だ入院している利用者と今後のことを相談する必要がある。しかし、こうしたケースでどうにもコミュニケーションを持つ可能性が低く、その効果も逆効果も懸念される中でどうすれば良いのか?思案をしている。
地域や知人の支援などが見込めたり、身近な援助者が居られるのならそうした人への連絡もする必要があるが、私の知る限りご夫婦共に殆ど人付き合いもない。
どうやら週初めの月曜日は寂しいお葬式に立ち会うこととなりそうです。・・・勿論、担当者として最低限度の可能な立ち会いはさせて頂くが、何ともうら寂しい事態の進展に戸惑っているというのが正直な気持ちです。
4月報酬改正の月末でもあり、ゆっくりと利用者に寄り添って話をする時間もないのが残念です。
こうしたお二人にとって、有るべきセーフティーネットとはどういうものであったのだろう。それぞれの生き方についてまで立ち入ることは出来ないが、こうした事態において声かけが出来る関係作り、自分が倒れたときに願いを託せるそうした連絡網というものはやはりきちんと作っておくべきものだと思う。
誰にも知られず、この世の中から自分が去る本人には文句のつけ様はないが、亡くなってから様々なことを依頼しなければならないそうした周りの人達のことを考えれば、出来れば自分が最後に残す意志を某かの形で伝える工夫が望まれる。

改めて、こうした事態を専門職としては事前に予測し、必要な情報を記録したり利用者の要望事項を書き留めたりの必要性を痛感する。
緊急時の連絡網が空白のケースがままあるが、何らかの連絡網が考えられるはずであることを踏まえて、その時になって利用者が寂しい思いをしなくて済むようにしたいとおもう。
先々週末に、いよいよ今年の朝顔の種をまいたのです。今こんな小さな2枚葉が伸び始めています。毎日水やりをしながらその成長を見守る楽しみがあります。これらの自然の植物の成長を見守ることで、そのクリーンなエネルギーを自分の中に分けて頂いている気がします。