フォーラム:認知症カフェを考える、に参加して

 このフォーラムのチラシです。⇒
 http://www.asahi-welfare.or.jp/news/pdf/20140726_ninchishocafe.pdf 
 このフォーラムは朝日新聞の主催で開催されたのですが、灼熱の太陽が照る中をYMCAの大阪ホールをほぼ一杯に埋める人達が詰めかけて、関心の高さが伺える講演会でした。添付しているチラシを見て戴ければ、開催内容は分かると思うのですが、私も含めて、「認知症カフェって何だろう?」と興味を持って駆け付けた人たちがこんなにもいることを知り、改めて認知症をテーマにした問題が社会問題の中心になりつつあることを痛感しました。

 さて、1部は二つの実践の紹介ー東京と京都の実践紹介が行われ、2部はパネルディスカッションと言う形式で行われました。
 1部では、国立市認知症カフェの試みが、つくし会理事長の新田さんから報告され行政・社会福祉協議会・民間施設や社会福祉法人等が協力して人材を組織化し、着実に地域に根付いていることが話されました。
 また、京都では、こうした事業を「社会貢献事業の一環」として位置づけ、社会福祉法人等が中心となって「おれんじカフェ」を作り上げていることが報告され、通常の福祉事業や介護保険事業障がいサービスとは異なる組織の在り方を模索している様子を熱く語っていただきました。 
 特に京都では、名称として認知症○○と言う呼び方を止めて、カフェde「おれんじカフェ」と言う呼び方で独自性を引き出し、家族や当事者が集まりやすい雰囲気づくり運営方針を確立していることが報告されました。

 パネルディスカッションで興味深かったことは、「何故 認知症カフェが各地で作り続けられ、一定の浸透を評価され始めているのか?」と言うことについて司会者より質問され、パネリストから以下のような意見が上がっていたことです。
⇒当事者パネリストとしての大阪の坂口さんは、「もっと、認知症カフェの情報を私たちに知らせてほしい。まだまだ、当事者の私たちはそうした集まりが地域にあることを知らされていないから」と発言しました。「私たちの家族の会では、以前から集いの会をそれぞれ開いていた。地域の参加者に対して何でも相談できる関係作りは今後も必要であり、そうした集いと認知症カフェの運営がどう異なり、一致点が何なのか?分かり辛い」と発言されていた。

 京都の同和園常任理事の橋本さんは、介護保険事業として位置づけられてしまうと、運営自体が一定の拘束を受け独自化していくことが難しくなる。おれんじカフェは、自由な発想で無理ないスケジュールのリズムで運営される。関わるスタッフは、手弁当でそれぞれの持つ技能や能力を、カフェに参集する人たちと共有することに喜びを見出しており、参加を強制することは一切ない。認知症のあるなしに関わらず、共に語り共に笑い、美味しいものを味わう・・・そうした触れ合いから、新たな関係が生まれ、参加者それぞれの自覚と意欲が引き出される。「だから、私たちがやっている活動は入り口でもあり出口でもある集いの場なんです。」と橋下さんは力説されていた。

 認知症カフェがもたらす効果としては、以下のような指摘がありなるほどとうなづいている自分があった。
 「家族と一緒に当事者が参加し、共にひと時を一緒に過ごすことで、家では見られなかったお互いの一面を改めて認識できる場となるのです。このことが、明日の介護、未来の家族や地域の関係に、新鮮な空気を届けることになります」と。
 認知症カフェに通う人たちが、次第に共に通う家族のことを再認識し、今まで気づけなかった「人」としての側面を認め合うようになる・・・そこから、次の家族と地域の関係造りのページがめくられていくように感じました。
 
 障害サービス、介護保険サービス、各保険者の独自横出しサービスと様々なフォーマル支援が存在している。
 しかし、どんなにそうした「落とされてくる支援」が増えても、その恩恵にあずからない部分が発生し、公助を補完する互助が必要となり、自助が欠かせないもの。・・・その意味では、認知症カフェの試みは、「昔からの日本的発想で言う互助の部分をつかさどる運動であり繋がりかもしれない」と、司会者の新田さんは語っておられた。

 なかなか、興味深い話題が満載のフォーラムに参加でき、有意義な時間を共有できたと思う。