ケアマネジャーが出来ること

 昨日の新聞(毎日)の28面に「ケアマネ、支援に限界 追い詰められる介護者」と題したアンケート結果が1面で紹介されていた。
 このアンケートは、今年1月末から2月にかけて、毎日新聞と「インターネットインフィニティ」が共同で実施し、延べ730人の在宅ケアマネから意見を集めた回答が元としてまとめられている。
 そして、表題にあるように、介護者の苦悩の深さをケアマネが感じて、どういう支援の現状があるのか?について述べられている。
http://mainichi.jp/articles/20160320/ddn/010/040/032000c

 詳細は、新聞のサイトやアンケート結果を見てほしいが、はっきりしているのは現状の介護サービスが、そうした介護者の支援サービスとして、極めて不十分な現実があること、それをケアマネジャーとして支援の限界を日々感じていることなどが明らかにされている。
 日々過大なストレスを感じている介護者が、いつ『介護にまつわる事件』を起こしてもおかしくない日常を送っていることも伝えられ、ケアマネジャーのストレスも大きい。
 支援者として、真摯に利用者や介護者に寄り添い、問題解決のために奔走するケアマネジャーの姿が浮き彫りにされており、地域や職場の支え合いが希薄なケースでは、ケアマネ自身もバーンアウトする危険性が高い。
 こうした、現実の日本社会の介護現場の実情が、今回のアンケートを通じて垣間見れることが出来るが、解決の糸口はどこにあるのか?

 この問いに対して、以下のポイントを、あげておきたい。
1・ケース事例における課題を、チームとして取り組んでいける支援の輪が作られること。
2・そのケースの課題について、利用者と家族ケアマネ以外に、支援事業者や地域のインフォーマル支援の協力が、連携できる見通しがあること。
3・包括支援センターや、事業所管理者、ドクターなどが、常に支えあいチーム化できる関係作りが出来ること。
4・ケアマネジャーが一人で抱え込まず、常に情報を発信し、意見等を聞いていく姿勢を持つこと。

*因みに、特に一人ケアマネや少人数のケアマネ事業所では、目の前の日常業務に忙殺され、課題や問題を置き去りにしたり心の奥にしまい込んでいることがあるかもしれない。しかし、これを続けていると、ケアマネジャーとして本当の意味で、悩む介護者や利用者本人の見方たり得るのか?大いに疑問に思う。
 もちろん、業務をある程度こなさなければ、成り立たない制度の問題はあるが、本来のケアマネジャーの立ち位置として、もう一度基本に立ち返る必要を痛感する。
 今回、新聞社がこうしたアンケートをすることにより、例えばこの記事を題材にして、職場や地域、利用者とモニタリングの際に話をしてみる、といったことも有効だと考える。
 一人のケアマネジャーの力だけでは、出来ることは限られているのは事実だ。しかし、担当利用者や事業所内で、話をし、問題を共有することは出来るはず、自分たちが出来ることから、それぞれがよって立つ立ち位置を、もう一度見直すきっかけづくりをしていく必要があるのでは?と気づいた。

 今回のような、新聞記事は、ただ一人で読むだけではもったいない。それを誰かと話し合うことで、より深め、何が出来るのか?ともに課題を共有する糸口があるように感じる。

介護起業の厳しい現実と課題を考える。

 先日、地域の事業所より、廃業=事業所を閉める報告が郵送されてきた。
その事業所は、訪問介護と居宅が併設された事業所として、5年間運営を続けられていた。しかし、先々のことを考え、このまま事業所を継続することを断念され、施設も持つ地域の大きな法人に吸収される形で事業所を閉じられることとなった。

 この事業所が継続できなかった背景には、いくつかの原因があるだろう。
その一つに、思うようにいかない利用者の獲得と、次の運営を任していく人材の不足があったと思われる。
 開業の際は、一度相談に来られ、1年ほど早くに開業した先輩事業所として、いろんなことを尋ねられ、これからの抱負をたくさん抱えて開業をされた。
 しかし、小さな事業所を始めてみると、実際の運営は大変です。弱音を吐く相手もいないし、少々体が辛くても休んでいることは出来ない。大きな組織では、難題は誰かに相談すれば、それなりの対応は組織で受け止められる。ところが、小さな事業所では、自分で考え、限られたスタッフで協力して問題にあたることとなる。数カ月の短い期間なら乗り越えて行けても、何年も続けることで、人間は疲弊する。
 廃業に至るまでには、きっと、悩みぬかれたことだろう。そのことを思うと、何も言えない。ただ、止めてしまわれることは残念だとしか言えない。しかし、こちらは、継続して運営にあたる立場だ。
 目標をもって開業したからには、一定のゴールに達するまでは簡単には止めたくない。
 実を言うと、現段階では、当事業所も赤字路線を驀進中だ。
利用者をもっと増やしていきたいが、増えない現実がある。昨年、二人のスタッフが辞めて、利用者もろとも持ち去ってしまったダメージが、まだ残っている。

 どうしたら良いのか?誰も答えを持たないし、成功のためのマニアルはどこにも書かれていない。自分たちの足で繋がりを作らない限り、見通しはない。このことを考えると、今回、事業所を閉鎖されたことが、他人事ではないと痛感する。(下手をすると、彼らの二の舞になってしまう可能性もある)

 自分一人の力では、結果は限られている。だから、大切にしたいことは、一緒に働くスタッフの知恵と努力を、一つに繋いでスクラムを組み直すことだ。
 最近つくづく思っている。これまでのように、事務所にいて電話の前に座っているだけでは、いつまでたっても何も起こらない。
 やれることを計画して、行動し、いろんな人に対して声をかけて自分たちの熱意を伝えること、それに尽きる。

 今回、自分たちと同じレベルの、地域の小さな事業所が閉鎖する報告を聞いて、改めて、明日からの業務に対する取り組み方を再認識していく契機としていきたいと思う。
6年前の開業した思いをもう一度思い出し、自分たちがよって立つところを再確認していきたい。
 公平中立な居宅介護支援事業所を伸ばしていきたい。
独立型の居宅介護支援事業所を、この地域で根付かせる必要性を、改めて自分たちの強みとしてアピールしていきたいと考える。

主任介護支援専門員の更新要件厳格化に物申す!

1・今回、なぜ主任更新要件が厳格化されたのか?
主任介護支援専門員の更新について、更新案内が来たが、更新のための要件がかなり厳しい内容になっていることが分かった。
>>更新要件:
1・介護支援専門員に係る研修の企画、講師やファシリテータの経験がある者
2・地域包括支援センターや職能団体等が開催する法定外の研修等に年4回以上参加した者
3・日本ケアマネジメント学会等が開催する研究大会において、演題発表等の経験がある者(近畿ブロック・日本介護支援専門員協会研究大会等)
4・日本ケアマネジメント学会が認定する認定ケアマネジャー
5・主任介護支援専門員の業務に十分な知識と経験を有する者であり、都道府県が適当と認める者

翁長知事を通じての沖縄からの声にどう答えるか?

沖縄での政府と沖縄県との確執が、法廷闘争に発展した。
1995年も、当時の大田知事が、米軍用地の強制収用に抗議し代理著名訴訟を法廷で争ったが、国に裁判で軍配が上がった経緯があります。

 今回の訴訟も、国は翁長知事が代表する沖縄の抗議を、裁判という司法の力で黙らせようとしているが、問われていることは、国民一人一人への問いかけです。
 翁長知事の意見陳述を読んでみて、改めてこの問題は、単なる沖縄の新基地建設の問題ということだけではない、深い歴史で刻まれた課題が刻まれていることを知った。・・・少し長いが、翁長知事のコメントを下記に転載させていただきます。既に読まれた方も多いとは思いますが、今後のそれぞれの個人の認識を問い直す声としていただければと思います。

『歴史的にも現在も沖縄県民は自由、平等、人権、自己決定権をないがしろにされてきた。私はこのことを「魂の飢餓感」と表現する。政府がこれを理解しなければ課題の解決は大変困難だ。
 日本政府は1879年、軍隊を伴って琉球王国を日本に併合した。沖縄戦では県民約10万人を含む約20万人が犠牲になった。戦後はほとんどの県民が収容所に入れられ、「銃剣とブルドーザー」で土地も強制的に接収され、米軍基地に変わった。
 1952年のサンフランシスコ講和条約発効による日本の独立と引き換えに、沖縄は米軍施政権下に置かれ、日本国憲法の適用もなかった。しかし政府は2013年、条約発効日の4月28日を「主権回復の日」として式典を開き、万歳三唱をした。沖縄にとっては悲しい式典。全く別々の人生を歩んできたようだ。
 沖縄が米軍に自ら土地を提供したことは一度もない。戦後70年、あろうことか今度は日本政府が「銃剣とブルドーザー」をほうふつさせる行為で名護市辺野古の美しい海を埋め立て、耐用年数200年ともいわれる基地が造られようとしている。14年の全ての選挙で辺野古移設反対の民意が出たにもかかわらず、建設を強行しようとしている。米軍施政権下と何ら変わらない。
 新基地が完成するのに順調でも約10年かかる。その間、普天間飛行場の危険性が放置される状況は固定化そのものだ。
 前知事の埋め立て承認に際し、首相と官房長官の最大の約束だった普天間飛行場の5年以内運用停止を着実に進めるべきではなかったか。約束は承認のための空手形だったのではないかなど、いろいろな疑問がわく。
 国民や多くの政治家が「沖縄は基地で食べている」と言うが、これくらい真実と違い県民を傷つける言葉はない。米軍基地は今や沖縄経済発展の最大の阻害要因だ。米軍基地関連収入は終戦直後には県内総生産の約50%だったが、最近は約5%。沖縄は基地経済で成り立っているというのは過去の話で完全な誤解だ。補助金なども沖縄県が突出しているわけではない。
 この裁判で問われているのは、単に公有水面埋立法に基づく承認取り消しの是非だけではない。戦後70年を経たにもかかわらず、国土面積のわずか0・6%しかない沖縄県に73・8%もの米軍専用施設を集中させ続け、今また22世紀まで利用可能な基地建設が強行されようとしている。
 日本には本当に地方自治や民主主義は存在するのか。沖縄にのみ負担を強いる今の日米安保体制は正常といえるのか。国民全てに問いかけたい。
 沖縄、そして日本の未来を切り開く判断をお願いする。』

 本土に住む日本人として、沖縄の声にしっかり耳を傾け、彼らを支援するために何をする必要があるのか?自問しています。
 
 きっと、本土に暮らしながら、沖縄の声に協和し、それに連携する方法があるはずだと思うのです。
 来る新しい年へ向けて、そのテーマをしっかり見つめ、形に現す必要を痛感しています。

我が家にも、マイナンバーとやらが送られてきたけど、どうしようか?

 祭日の今日、自宅でのんびりしていると、宅急便で本人確認されて家族のマイナンバーが送られてきました。
とうとう来たか?と中身を確認すると、家族4人分確かに入っている。
ちなみに番号を見ると、4人とも、4桁ずつの三つのまとまりが、全然違う番号で送られてきていることが分かった。
 番号割り当てが、どういう仕組みで設定されているのか?判らないようになっていそうです。
 この封筒には、マイナンバーの通知カードが入っており、個人番号カードを交付申請するときは、申請書IDを記載しないともらえない仕組みとなっている。→これは、どうやら、なりすましによる不正発行を防止するためと思われる。
申請書IDは、23桁の数字で決められており、それを照らし合わせて、本人確認をするらしい。
 ただ、この個人番号カードを作成すべきかどうか?迷ってしまう。
曰く「金融機関における口座開設・パスポートの新規発給・等で便利だ」と説明書に記載説明されている。また、今後、複数のカード機能としても使えるようになり、例えば健康保険証としての利用も可能となるとか?

 各種行政手続きのオンライン申請に使ったり、民間オンラインとしてネットバンキングに使用したりもできるそうだが、こちらはそんな取引は、今後もする見込みはないし、用がなさそうだ。しかし、印鑑証明など公的証明書が、コンビニなどで出来ると聞けば、少し興味がある。

 個人証明書代わりになるので、税務や公的な届出の際は便利と思われるが、セキュリティー面で大丈夫なのか?
 もう少し様子を見て、対応しようか?と考えるが、
いい機会なので、一度家族で話し合ってみようと考えている。

 その際、もし、個々人が「自分で管理したい」と言えば、いっそそれぞれに渡して自己管理するというのも、一つの方法だろう。

 賢い人たちが、いろいろ工夫してシステムを考えてくれてるんだろうが、それを悪用する者たちは、必ず社会のどこかで発生し渦巻く。
 それに引っかからない知識は必要だが、危ない橋を渡らない知恵を持つということは、各個人の判断だから一概には決めつけられない。

一億総番号化かとか、一億総活躍社会だとか言われてくると、そんなに沢山の人が社会の仕組みを作る場合には、組織や仕組みをどう繋げていくのか?複雑だ。
 
 何だかよく判んないな。


 

2015年 大阪でのパオッコセミナーにて


→10月初め、藤原京跡にて撮影。早朝6時過ぎです。沢山の、おじさんたちが朝日と山の風景を撮ろうと陣取っていました。

開催日:
平成27年10月24日 土曜日

1・セミナーの外観概要
2・ポイント
3・意見と主張
4・期待とこれから

1・パオッコのセミナー2015が、18日大阪で行われた。
私は、今年も大阪会場でのセミナーに呼ばれ、第2部のアドバイストークで発言をさせていただく機会を得た。今年で6回目の登壇です。
 ちょうど、自分が開設した居宅介護支援事業所も6年目に入っており、年月の経過を感じる。
でも、今年のセミナーは、今までの経験と比べて、特に内容レベルが高いものとなった気がする。では何故そう思うか?以下にまとめてみた。
2・一つは、第1部の外岡潤さんの講演と連動して、2部でのテーマ設定がわかりやすく企画され、まとめられていたことがある。お二人の体験談(パオッコ会員)の紹介とアドバイススピーチ、という形で問題提起がなされ、それに対して会場からも意見発言が求められた。事前の質問集約と当日発言を受け止め、それに対する意見交流がうまく機能したことがあげられる。
 とりわけ印象深い体験発言が関東在住の男性介護者からあり、「精神科病院に母親を入院させる他方法なくなった現在進行中の体験」が話され、会場はシーンと静まり返った場面となった。
 司会者が私の方に助言発言を求められ、こちらは緊張モード120%。でもそこからは自分の出番なので、臆することなく話し出していた。
「勇気を持って体験を話していただきありがとう。
家族で悩み、本人のことを考えて入院とされた判断は、誰が間違いと言えるでしょうか?その判断に不安を覚える必要はないですよ。
治療の時間−それは長い期間を要するかもしれないがーその時間がたてば、母君は病院から自宅に戻れる時が来るでしょう。そして、そのとき当人は、理解しておられるはずです。…家族は私のことを思って入院という対応をした。確かに私はその時辛くて家族を恨めしく感じたこともあったが、今はそれが間違いであったことが分かる。息子をはじめ、私を支援する人たちが、私のためにやってくれた。そのことを感謝したい…と。
ですから、あなたが心のどこかに後ろめたさの様なものをお持ちでしたら、その心配は無いということを言わせていただきます。」
 大体このような助言をさせていただいた。
 でも、その後会場の1女性から、さらに強い応援の言葉が寄せられた。その発言の要旨は、以下の内容でした。
「私も数年前、先ほどの発言者と同じような体験をしました。家族内で精神的な不安を持つ者が出て、自宅で包丁を振りかざすこともあり、悩んで主治医にも相談し、母親を精神科に入院させた。その時は心が痛んで不安が大きかったが、それから治療の効果が出て親は回復し、自宅での生活が再開した。今は本人も落ち着き家族も普通の生活を取り戻した。精神科に入院させたことは、結果として最善の策だったと考えているし、その時点では他に方法はなかったと思う。自分一人の判断だけではなく、支援する人たちや主治医の意見等も考慮して、親を入院させたこともよかった。だから、介護する側はそんなに入院に対して罪悪感を持つ必要はない。その時、他に方法がない場合は医療処置により回復が出来ることがある、今はそのように考えています」等々。
セミナー参加者のこのような発言には、私も大いに感心させられた。
準備していえる発言ではないし、その時の流れで、発言された女性は勇気をもって助言されたと思う。
 私なんかの話より、よっぽど彼女の話の方が重みと真実味があると感じた。こういうサポーティブな対話がなされたことにより、この日のセミナーの価値が、一気に高められていったのです。
3・私は、昨今、介護が次第にマスコミで取り上げられていることで、情報としてはより多くの考え方が一般市民に提起され始めている意味では、その流れを歓迎するのですが、一方では、中身が伴わない「事件簿的な情報」があふれていることに危惧を抱く者です。
 それが近場の親の介護であれ、遠距離の親の介護であれ、どのように問題に対して向かい合えば良いのか?という悩みは、昔も今も変わらないと思う。
しかし、大きな特徴としては、現在の日本が置かれている状況が、世界でも類を見ない「超高齢化社会での介護問題」として出現していることに注目していきたいということです。誰も経験せず、今までの判断軸では対応が難しい課題が山積み、その介護をテーマとする問題は、今後ますます深められ研鑽される必要があるのです。
 人が生まれ、育ち、社会で働き年老いてリタイヤする…それは自然の成り行きです。
一昔前は60数年で終わった人の人生が、今は90年近くの時間的経過を要する人生のプロセスとなり、その間をどう過ごしていけば良いのか?誰も正解を持ってはいない。しかし、一人一人の人生は、法律が決めるのではなく、他ならぬ自分が決めるものであるなら、どう生きるのか?というテーマの骨格に、必ず介護の課題が含まれているはずです。
 体は衰え、やがて朽ちてゆくことは避けられない。それは命あるものの宿命ですが、どう意識的に老後を迎え過ごしていくのか?について、もっとスポットライトが当てられねばならないと思う。
老後が、枯れゆく影を伴うものというとらえ方が一面的であるとするならば、若さと美は対立するとは限らず、年老いても美しいものがあるのでは?
ではそれは何か?「肉体の表・裏、精神と魂に宿る繋がり」と言えるかもしれない。今後の介護問題は、人間の生命観、生きる意味をどこに見出すのか?という人生観・人間観と合流する。その社会が、どういう人を育て、見送っていくのか?どういう文化を育むのか?により、その社会の成熟度、価値観というものが推し量れるはずです。
日本の社会が、他の国々に発信できる介護情報をさらに強く伝達していくことのポイントは、そこにあると思う。「老年学」とも呼ばれる領域が、大きな注目を集め影響力を持つ流れになるはずです。市民意識を高めて、介護に関するレベルを引き上げることで、若者を育てることも叶うはずです。
 確かに、日本の現状は、理想とは程遠いかもしれない。しかし、介護の現場での現状を打開するのは単なる公的なサービス・制度の量ではない。
 ハードの部分とともに、市民の意識もまた進化する必要があるのではないか?そんな風に思うのです。
その為には、議員さんたちや学者さんたちの、テーブルで複雑な仕組みが取り決められることよりも、介護の現場と、専門職や介護の当事者の意見がもっと奨励され尊重され、生かしていける仕組み作りが必要と痛感します。

 パオッコセミナーが、今後も、市民の新しい情報を提供し、相互交流を促すものとして、さらに活動を続けていただくことを応援していきます。

ケアマネリング港合同会社 代表社員 主任介護支援専門員 白戸 望

10月になっても、時々、遅植の朝顔が花を咲かせています。

「絶歌」を読み終えて

 本年6月末、神戸の連続児童殺傷事件を起こした、(当時少年の)Aが書いた本が発行された。
 この本は、作者自身が犯人であるという意味では、今までも永山則夫等の著作と同じ動機で書かれたものであり、何が書かれているか?読まないと分からない、犯人でしか分からない内容が書かれている。
 この本の発行については、A自身も苦悶の末の公開発刊であるが、被害者家族からは本の発行について抗議と批判が出され、事件の起こった地域の学校図書館など公共施設からは締め出しと公開禁止扱いがなされていると聞いている。
 しかし、自叙伝を書き、著作を発表する権利は、どういう背景があろうと禁止することは出来ない。表現と主張は、全ての人に保証されており、それを読む権利と自由もまた保障されねばならないと思う。

 インターネットで購入して、「絶歌」を詠むことが出来たが、読後は複雑な気持ちになった。犯人Aの行ったことに対して、疑問と批判・深い悲しみを感じたが、すでに行ってしまった行為に対してもはや誰も関与が出来ない。
 その意味では、法に則して処罰され、社会復帰をしていることについて、その流れを受け入れる以外方法はないと感じた。
 Aが今も必死に毎日を生き抜いていること、自分が侵した犯行で、多くの家族を傷つけ不幸におとしめたことを悔い、詫びる毎日を送っていることを知ることが出来るが、自分は何が出来るか?考えてしまう。

 Aにも家族があり二人の弟たちや両親の苦しみと悩みを思う時、Aは、「自分は生まれてくるべきではなかった」と幾度も痛感苦悶する。しかし、どんなに苦しくとも、事件と向かい合い、自分が人間としてできる何か?を人として行っていかねばならないという、執念だけを燃やし続けながら、彼は生きていると思う。

 私は、このような状況下で、書かれた著作を、人間としての叫び声として読ませて頂いた。この本を読めば、例え殺人者もまた一人の人間として、まっとうに生きていきたいという人としての願いを持っていることに気付かされた。

 また、かれを、社会復帰のために受け入れ家の中に招き入れ、残された人生に対して応援する人たちが社会の中に少なからずいることについても、大きな尊敬の念を持つ。こうした支援組織と援助者がいなくては、社会復帰はあり得ない。
 一度非人間的犯罪を犯した人間は、二度と社会復帰が出来ない仕組みにするのではなく、どんな罪を犯した者も、暖かくしかも厳しく包み込む社会の仕組みがあることが必要なんだと信じている。

 今後、Aがどのような著作を書いていくのか?どのような生き様を記していくのか?私も一人の、同じ日本社会に住む市民として見守っていきたいと思う。
 今後も、彼には表現し、顕わしてもらわねばならない仕事が残されている。それは、「絶歌」を書いたら終わりではなく、始まりの一つの経過点ではないか?と思っている。

 心ある方は、一度彼の書いた内面の叫びを聞いてみて欲しい。
犯罪者としての自戒、驕り、戻ることが出来ない孤独がちりばめられており、こうした言葉は、何時か彼がこの世の生を終えてからも、ずっと残されていくものなんだと思う。
言葉でしか表せないが、彼が償えるとしたら言葉を通じてしか気持ちを伝えることができない。私たちも、言葉を通じて彼の内なる思いを汲み取ることは不可能なのです。