「絶歌」を読み終えて

 本年6月末、神戸の連続児童殺傷事件を起こした、(当時少年の)Aが書いた本が発行された。
 この本は、作者自身が犯人であるという意味では、今までも永山則夫等の著作と同じ動機で書かれたものであり、何が書かれているか?読まないと分からない、犯人でしか分からない内容が書かれている。
 この本の発行については、A自身も苦悶の末の公開発刊であるが、被害者家族からは本の発行について抗議と批判が出され、事件の起こった地域の学校図書館など公共施設からは締め出しと公開禁止扱いがなされていると聞いている。
 しかし、自叙伝を書き、著作を発表する権利は、どういう背景があろうと禁止することは出来ない。表現と主張は、全ての人に保証されており、それを読む権利と自由もまた保障されねばならないと思う。

 インターネットで購入して、「絶歌」を詠むことが出来たが、読後は複雑な気持ちになった。犯人Aの行ったことに対して、疑問と批判・深い悲しみを感じたが、すでに行ってしまった行為に対してもはや誰も関与が出来ない。
 その意味では、法に則して処罰され、社会復帰をしていることについて、その流れを受け入れる以外方法はないと感じた。
 Aが今も必死に毎日を生き抜いていること、自分が侵した犯行で、多くの家族を傷つけ不幸におとしめたことを悔い、詫びる毎日を送っていることを知ることが出来るが、自分は何が出来るか?考えてしまう。

 Aにも家族があり二人の弟たちや両親の苦しみと悩みを思う時、Aは、「自分は生まれてくるべきではなかった」と幾度も痛感苦悶する。しかし、どんなに苦しくとも、事件と向かい合い、自分が人間としてできる何か?を人として行っていかねばならないという、執念だけを燃やし続けながら、彼は生きていると思う。

 私は、このような状況下で、書かれた著作を、人間としての叫び声として読ませて頂いた。この本を読めば、例え殺人者もまた一人の人間として、まっとうに生きていきたいという人としての願いを持っていることに気付かされた。

 また、かれを、社会復帰のために受け入れ家の中に招き入れ、残された人生に対して応援する人たちが社会の中に少なからずいることについても、大きな尊敬の念を持つ。こうした支援組織と援助者がいなくては、社会復帰はあり得ない。
 一度非人間的犯罪を犯した人間は、二度と社会復帰が出来ない仕組みにするのではなく、どんな罪を犯した者も、暖かくしかも厳しく包み込む社会の仕組みがあることが必要なんだと信じている。

 今後、Aがどのような著作を書いていくのか?どのような生き様を記していくのか?私も一人の、同じ日本社会に住む市民として見守っていきたいと思う。
 今後も、彼には表現し、顕わしてもらわねばならない仕事が残されている。それは、「絶歌」を書いたら終わりではなく、始まりの一つの経過点ではないか?と思っている。

 心ある方は、一度彼の書いた内面の叫びを聞いてみて欲しい。
犯罪者としての自戒、驕り、戻ることが出来ない孤独がちりばめられており、こうした言葉は、何時か彼がこの世の生を終えてからも、ずっと残されていくものなんだと思う。
言葉でしか表せないが、彼が償えるとしたら言葉を通じてしか気持ちを伝えることができない。私たちも、言葉を通じて彼の内なる思いを汲み取ることは不可能なのです。