ある男の死について。

その男は、戦中に中国や東南アジアで日本軍人として勇ましく戦い、運よく戦死せずに生きて日本に帰りました。戦後は家族の元に帰ってこつこつと商売をし、子供さん達を無事立派に育て上げ、夫婦仲良く暮らしておりました。しかし、妻の方が高齢になって病気に罹り先に寝込みました。戦争中から苦労をさせた妻を、この時とばかりに男は手厚い介護を続けて看病し、妻が亡くなるまでの10年介護のために毎日を懸命に生きていました。

やがて介護保険が始まり、ヘルパーたちが入れ替わって支援に訪れ、夫の負担軽減の為に手を貸してはくれましたが、満足な介護ではなかった為にしばしば苦情等を介護事業所とケアマネに持ち込みました。やがて妻が先立ち一人の生活が始まりました。
普通なら、今まで介護の為に出来なかったことを思い切りやって頂くことになる筈でしたが、妻を見送ってからは今度は体調不良が長期化してとうとう歩けなくなり、寝たきりに近い状態になった。・・・それでも、ケアマネジャー等には様々な意見を表明して自らの希望を実現しようと要望されることが多々あったが、介護保険制度には勝てなかった。

本当はもっと限度枠いっぱいに訪問介護のサービスを使いたい、ヘルパーに来て欲しいと懇願されることがたびたびあったが、「介護保険制度では、一定の縛りがあり無制限なヘルパー派遣は出来ない」とケアマネが何度も説明することが続いた。
一度駄目だと言われても、何度でも自分が納得するまで様々な要望を出された。・・・しかし支援する側も負けずに、その都度「出来ないことは無理です」と断った。
やがて次第に体調が衰弱し、弱音がしばしば出るようになり、最後は病院に入院、そのまま帰らぬ人となった。享年94歳、充分すぎる生き様ではある。彼が経験した戦中の体験談や戦後の家族のことなど手記風に描かれたものがあって、「ケアマネさん、読んで貰えますか?」と渡されたことがある。
訥々と自らの過去を記載され、多くの体験がしっかり具体的に描かれていたのを思い出す。その手記を読んで、「苦労が良く判りました」と感想を述べると笑顔でそうかそうかと頷き返しておられたことを思い出す。

彼にとって、息子たちはあまり介護に献身的ではないことを本来ならばもっと責める気持ちがあってもおかしくない。何でもっと親の為に孝行しないのか?ともっと求められても可笑しくないが、彼は常に息子たちを庇い、責めることが無かった。「息子たちはみんな家族もいるし忙しい」と自分で弁解し、納得してその分介護保険で見て欲しいと要望した。

しかし、そうした浪花節論法に流されず、無理なことは無理と頑なに法的な規制を盾に取ったケアマネ自身、つくづく家族の難しさを考えた。

本来、もっと家族で対応して頂くことが沢山あったが、事実としてそれをして貰えない場合、取り残された本人が孤独に放置されていた現状があった。
近隣の知人やインフォーマル支援が得られれば良いのだが、そうは上手く社会資源は見つからない。どちらかと云えば、人付き合いも良くなかった。
結局耐えしのんでいたのは利用者本人であり、彼の本当の気持ちは寂しい取り残された老後だったのかもしれない。・・・現在の介護保険では、1日生活支援は90分、複数回派遣する場合は2時間以上を開けて訪問しなければならず、彼が望んだ滞在型の長時間サービスは実現無理だった。

亡くなる前の2年間、ほとんど外出することもなく、風呂に入ることもなく(ディの利用には結局同意されることが無かった)昨年秋息子さんに銭湯に連れて行ってもらってお風呂屋さんに行けたことを喜んで話しておられたことを思い出す。食事量も落ちて、だんだん食べ物が喉を通らなくなり、体重も減っていった。その頃は口癖のように「もう私は寿命が近付いた。後1年は生きられません」とよく言われていた。いつもそうした話が出るので、だんだんそれを否定することなく言いたい話を聞くように対応を変えた。

亡くなる2日前、病室にお見舞いに行き、早く良くなるように面談したが、本人は医者に退院出来るように話をしてくれないか?と依頼をされた。
「体調がもっと良くなるように、食事をしっかり取って下さい、」など返事をすると、寂しそうに笑っておられた。・・・それが最後の面会となった。別れ際に、最近とったお気に入りの花の写真を見せ、奇麗でしょ?と聞いた。その黄色い鮮やかな写真を見て、「何の花ですかね」と見つめられていた。

人間の一生、その男の一生は終わった。戦争の中を生き抜き、戦後のドサクサを切り抜け、家族と子供たちの為に働き、年老いて妻を介護し、最後は孤独に息を引き取って亡くなられた。
彼が語りきれなかったこと、言いきれなかったことはままあるだろう。そんな彼の一生を、私はどれだけ受け止めることが出来たのか?

常に彼は何かを書き残そうとしたが、その言葉に耳を傾けてしっかりと受け取る仕事は、他ならぬ私たちの仕事なのだと自覚する。

彼の葬儀が予定される日、私は組合の大会があるため葬儀には出席できない。残念だが、自分は一人新幹線に乗りながら彼にお別れをしようと思っている。・・・きっと、その無礼を彼は許してくれるだろうと願いつつ。