「いのちの食べかた」 森達也著を読んで思うこと。

読書感想

いのちの食べかた
森達也 
(株)理論社 ヤングアダルト向け
この本は、中学生以上の大人向けに作られた出版物ですが、全ての漢字にルビが振られており、たとえひらがなだけが読める人でも本の内容を知ることが出来るように作られている。
専門的な難しい表現は避け、出来るだけ平易な解説をされている。こうした配慮の為に、初めは逆に内容面の質がどうか?と余計な勘ぐりを入れてしまっている自分がいた。
・・・しかし、そんな心配は余計なものであることが読み進むうちに分かった。
確かに、読者想定は中学生から高校生、いや場合によっては小学生も対象に入れた説明の仕方になっている。その意味では、語りかけや表現がどうしても大人が子供に話すような語りかけとなっている。しかし、森さんの語りかけには嫌みがない。だから、おそらくこうした内容を初めて読む青少年が興味を持ち自分で考えていくきっかけづくりが本の端々に仕掛けられている。
・・・たとえば、とさつ場の中がどうなっているのか?何を具体的にしているのか?を説明し始める場面で、森さんは実際に自分がそうした場所に行かなければ本当の中身は認識出来ないだろうことを指摘する。
誰かがとさつ場で行われていることを具体的に書いて、それを自分が読んだとしても、実際に体験して自分の目で見、耳で聞いたことではないから
本当の意味で実感することは出来ない。だから、この本を読んでも意味がないということではなく体験することの重要性を説いている訳です。

私たちが毎日食しているお肉たち・・・それらは間違いなく生命を持っていた。動物達だけではなく、魚も植物も全て生きている。それは当たり前のことであるが、そうした生き物を人間は自分の生命維持のために食物としている。・・・偉そうなことを言っても、しょせん人間中心の、生きるための自分以外の生き物を食べる活動を続けており、そうした活動を
もし辞めれば、人間の前途には死が待っている。何かを食することの意味を、しっかりとらえる事がこの本の命題となっている。

学校で食物連鎖ということを学んだ。
生き物がお互いに食べるという行為を通じて繋がりを持っていることとは、具体的には食べる相手の命を食物としていることに他ならないことをこの本は語りかけている。

殆どの動物は食物連鎖の中で生きているが、人間だけは特別扱いされている。人間は様々なものを食しても、人間が何かの生命維持の為に食べられるということはない。
・・・しかし、それを全くないということは事実に反するだろう。かって戦争の時代、食べ物が無く飢えに苦しんだ兵隊たちが、最後の最後に人肉を食べた話がある。
また、普通の平和な世の中でも、時折異常な価値観を持つ人により人肉が食べられていた話も聞いたことがある。また、昔は鳥葬といって亡くなった人を小高い山の上に運びそこに亡骸をおいて鳥たちが遺体を食べてしまうやり方があった。・・・今でもそうした風習が行われている地域もあるかもしれない。考えてみれば、こうしたやり方が自然の営みとして人間だけを特別視せずに、食物連鎖の体系に身を任せる昔の人々の知恵・宗教哲学があったと考えることもできる。
もし、現代でもこれをやろうとすれば、おそらく死体遺棄罪に問われることになるかもしれないし、いくら故人の遺志でやろうとしても法律的に禁止されていると考えた方が良いのかもしれない。
ここで踏まえるべきことは、人間がいかに特別視され、人間中心の世界観が現代を支配していることを観る必要があることだ。
人間に食される動物や植物たちは、ある意味で人間達に無償でその生命体を提供している。・・・一匹の鶏が、自分の体と卵を人間に提供している場合、その報酬として何がしかの対価を得ることは一切ない。
このことを考えていくと、何と人間は身勝手で、情け容赦もない「専制君主」以上の存在に祭り上げられていることが分かる。
考えてみ見たい。もし、自分の内臓の一部を、何かの障害や病にある人の生命維持のために臓器移植を行う場合、相手が第3者であればその対価としての報酬が契約されるだろう。もちろん肉親や知人であるならば、お金等のやり取りはないだろうが、それでも移植が成功して無事臓器が相手の体の中で機能すれば「命の恩人」として、その相手の生命が維持される間最大級の感謝と尊敬をお礼として差し出されるだろう。
ところが、日常の私達の食事において、(クリスチャンでもない限り)お祈りもしないだろうし、簡単な「頂きます」という言葉で食べ始める事になる。そして食事が終われば「御馳走様」で終わるだけだ。満足した胃袋の中の生き物たちの変化について、いちいち今どうなっているだろう?などとは考えない。口に入れ噛み合わせて飲み込めば、もうそこは自分の体の中の世界に入っているとでも思っている。確かに栄養吸収過程で、その細かい成分の変化はあるだろうが、いちいち専門家でもない限り今胃袋の中でどういった酵素が混ざり合って吸収されている・・・等感じることなどないだろう。


この本の構成は、
第1章・もしもお肉がなかったら?
第2章・お肉はどこからやってくる?
第3章・僕たちの矛盾、僕たちの未来
の3部構成となっており、第3部では日本の鎖国時代の食生活の事や、部落差別の歴史の事にも触れられている。
とりわけ、日本の部落が何故作られたか?どんな職業を強いられてきたか?そこからどういう意識が生まれているのか?を分析している。「穢れ」や「不浄」として遠ざけられた道徳的な感覚が、実は歴史の中の権力者が作り上げた差別政策の中に原因があることを指摘する。

現代においても、町のどこかにあるとさつ場は、世間の日の目にはあまり出てこない。マスコミ等での取材もほとんどない。魚類については、築地の朝の競り市に関してはあれだけ人気があるのに、なぜ、同じ都会のとさつ場は人気とならないのか?
・・・森さんによると、キチンと申し込みをして見学希望願を出せば専門家が説明に立ち会って見学することが出来るようです。
残念ながら、この年になって自分もまだとさつ場の中を見たことがない。鶏舎の中で行われる早朝の鳥たちの処理(首を切って流れ作業で精肉化する工程)には立ち会ったことがある。
・・・山岸の村に居たことがあるからです。そこでは、日常的に鳥や豚牛などが飼育されており、当然の肉にするための工程を村人たちが率先して行うこととなる。
でも、この本に書かれているような大動物の牛などをお肉にする場合は相当研鑽されたやり方で扱わないといけない。もし、失敗や牛たちの必死の抵抗を発生させれば、人間の力では到底制御できない大混乱となる・・・ここで詳しく本に書かれていることを私が書くことはあまり良いことじゃないだろう。なぜなら、実際に自分の目で見もしていないことを、さも実際に見てきたように記載することは相応しいことではないからです。
私が書ける事は、自分も含めて一度とさつ場を観ておくべきだということです。自分が生命を維持するために食してきた肉たちが、実はどういう人達のの仕事の苦労の中から生み出されて今日のお肉になってきたのかを事実として知る必要があるからです。私の代わりに牛たちを解体し、お肉にしてくれている人達がいてこそ今の私たちの食生活が成り立っているのですから。

食べることにおける、食材の本当の姿と関わっている人達の仕事を知ることは、自分達の生命維持の工程全体を知ることでもあるのです。ややもすれば隠され伏せられている事実を、この際すっかり取り払って調べてみることは、私たち大人にとっても命の根源を考える意味でも大切なものであると思う。
こうしたことを、この本は私達に語りかけている。ぜひ、子供さん達とも読んで語り合うべき内容があると思う。

毎度我が家の朝顔ですが、今毎日たくさんの花達が咲き乱れていますよ。

これは金曜日の夜に、満月が輝いていたのを、マイカメラで最大に拡大表示して撮ってみました。月明かりにも、生き物の心に差し込む力があるように思います。狼のように、「フォー」と吠えてみたくもなります。

朝の日の光が朝顔達に一杯差し込んでいます。


分かりますか?バッタ君のすぐ斜め下に、脱皮したカラがあるのが・・・・偶然見つけたのですが、貴重な成長の一コマが記録できました。