仲良し親子を、帰宅の電車で見かけました!?

 新潟県の知事が、女性問題で辞任をするらしい。…未成年の女性と、関係を持ち続けたことを週刊誌にすっぱ抜かれることになったことが原因と報道されているが、詳しいことは、ここ数日で明らかになるだろう。
 でも、今書こうとしていることはこのことではなく、帰宅の電車で体験した話です。
 50代と思われる会社員が、乗り込んだ社内の右斜め前の座席に座っていました。私はつり革をもって新聞を読んでいました。
次の停車駅で、高校生?と思われる女の子がするすると横に入ってきて、いきなり男性と話を始めたんです。そして、「お父さんに、話したいことあるねん。・・・とこちらにもはっきり聞こえる声でどんどん話をします。学校であったことや、いろんなことを話してくれるのは良いんですが、全ていっぱいの社内ですから聞こえちゃうんです。父親の相槌や、娘のしゃべりが、新聞を読んでいてもバックミュージックみたいに入ってくるので、いやでも聞かされます。
 こうした、満員の社内で、人のことを考えずに話をする人と、聞かされる人、これは避けられないのでしょうか?
 今日の親子は、可愛いもんですが、男としては、ちょっと親父さんに対して妬みのような気持ちが芽生えていたのかも?
 顔は観てませんが、かわゆい声の女の子でした。
きっと、奥さんは、上手に子育てをしたんでしょうか?

 最近、親父と言えば、娘から嫌われ者とされることが定番ですが、案外、今日のような親子もいるんだと、ほっとした部分と妬ましい部分と混在です!
 ちなみに、今日は私の〇〇の誕生日。
後、3年は仕事を頑張りたい。
ここからは、内緒ですが、(読みたい人はどうぞ、お読みください)
借金を返したら、そしたら、次にやりたいこと、やり残していることへスイッチを切り替えようと考えております。
ケアマネ事業所開設につき、経営ミスをしたのです。
 ええ?…借金のことですか?分かりやすく言うとこうです。事業を継続する中で、どうしても支払う必要がある、リース代などが残っているんです。
ほんと、名前からして、白戸(素人ですから)
願わくば、健康と、幸運が、続きますように。
そして、支えてくれている家族に、感謝です。

72年前炎天下の真夏、路上にさまよう子供たちが溢れていた

戦争は、終結後も傷ついた人々を苦しめる。
国と国との戦いだが、個人対個人の憎悪を伴う争いではなく、強いられた”システム化された殺し合い“として展開される。いったん戦争体制になると、社会のあらゆる価値あるものが、戦争に勝つための道具化を余儀なくされる。・・・たとえ勝者になろうと、多大な犠牲を国民は被ることになる。いったん戦いが始まると、戦争に反対する意見は封殺され、敵視される。人を殺してはならない、と教えられた価値観が逆転し、敵を殲滅せよという命令が絶対化される。
 この夏の時期になると、広島・長崎の被爆記念と共に、空襲で被災した人々の歴史も報道される。
8月10日の朝日朝刊には、金田茉莉さんの体験が、オピニオン&フォーラム 孤児たちの「遺言」というタイトルで、掲載されている。
その記事を読み、終戦後の日本の歩みの中で、どれほど多くの子供たちが、国や社会から見捨てられていたのかについて学ぶことが出来た。戦後、親兄弟と連絡が取れず文字通り路頭に放り出された子供たちが、12万人以上(沖縄、浮浪児、養子になった者を含めるとさらに数は膨れ上がる)存在した。
戦争孤児とは、戦争により保護者である親が戦死や空襲で亡くなり、その日の食べ物もなく社会から放り出された子供達のことをさす。生きていくために、盗んだり略奪してでも生きる他命を永らえることが出来なかった、そんな飢餓状況で、当時の国は救済策を有効に実施していたとはお世辞でも言えない。
兵として戦地で命を失くした軍人家族には、遺族年金等が支払われ、英霊として名誉も付与される。しかし、大人の戦争に巻き込まれて路上に放り出された子供達に対して、いったいどれだけの社会的責任としての施策があったのか?今一度反省の意味を込めて検証していく必要があると思う。
金田さんは、記者との対談を通じて、自らの戦争孤児としての悲惨な体験を語り、忘れてはならない戦争の歴史の子供たちに及ぼした事実を語り継ぎ、書き遺そうとされている。
もう、残された人生は僅かであろうと、自らが体験し見てきた戦争の実態について、これからも忘れてはならない、と話しかけてくれているようです。
今また、時代は軍事増強・核兵器の容認・東南アジアや朝鮮半島との緊張関係が深まっているようにも感じるのは、私だけではなかろう。
子供たちを戦争に向かわせない社会、子供たちに犠牲を及ぼさない社会を作りたい。
単なる理想で語るのではなく、具体的に国家的敵対関係を無くす運動が必要だと思う。
 戦前の軍国主義国家は、戦争が終わった後も、長く路頭に迷う孤児たちを救済する施策を具体化できなかったこと、このことを考えてみたい。戦後民主主義で語られる人権・平等・自由という理念が、その本来の意味を具現化する制度を作り上げるには、いかに不完全な制度であったのか?の反省が必要と考える。国からも、親親族からも、世間からも追放され亡くなっていった子供達のことを、私は忘れないでおこうと思う。

次男の孤独死に思う。



 
5年前に、次男のことを記事にして書き、それから5年の歳月がたった。先週、兄からの連絡で、次男が孤独死をした?事、遺体を確認のため、DNA鑑定が必要になったことなど伝えられました。
 死後、かなりの時間が経っての発見だったので、目視では本人かどうか?確認が難しいことが伝えられたのです。
 そして、先週末に、管轄する警察署に赴き、長男や離婚した妻や次男の息子が集まり、状況報告を係の警察官から説明された。
 どうやら、お風呂に一人で入り、そのまま亡くなって浮かんでいたようで、近隣の住人・新聞配達店等の情報により、鍵を家主から提供されて部屋に入り、本人がお風呂の中で亡くなっていることが分かったらしい。警察の話では、施錠がされて、他の不審者が入った形跡がないこと、お風呂での水死から推察して、事件性はないことから、死因を不詳とされていることが分かりました。
 身近な兄弟が、このように孤独死し、最後に身内の者に確認されることに至ったこと、病院の受診歴から、がんや糖尿病などの病歴が記録されていること、現金は54円を所持しているだけで、通帳にはお金が残されていないこと、生活保護を受けていたことなどが分かった。
 きっと、生前の生活は、うら寂しい一人暮らしをしていたのではないか?と想像された。部屋に残されている本や写真を開いてみて、亡くなった男が次男であることはおそらく間違いないでしょう。しかし、免許証の写真を見て、兄や元妻が、「父親では?」と間違う風貌に変わっていたことに驚かされた。
 三十年以上経てば、私も確かに頭の毛が薄くなり、風貌が変わった。しかし、次男の変わりようには、正直驚かされた。そこには、その顔には、勝手の気ままにおのれの好みで家族を顧みなかった男の派手やかさはみじんも見られず、年老いた初老の、複数の病気を抱えた老人の風貌があるだけだった。

 こたつ机の上には、ノートパソコンが置かれていたので、どんな情報があるのか?見てみたい欲望もあったが、そのままにしておいた。
 何某かのメッセージや、次男が生きていた証のような奇跡が、パソコンの中にあるかもしれないが、それは伏せておくことにした。
 自分に、もう少し次男の人生に興味があったなら、あるいは残された情報を見てみることを選んだかもしれない、しかし、それは止めておく。
 次男の息子さんが来られていて、挨拶が出来た。今後、何かの機会に話をすることになるかもしれない。彼の思い、頑張って育ててきた母親への思い、自分たちを顧みず、好き放題に生き、最後は孤独死した父親への思いなど、聞くことが出来れば、本人にとっても気持ちを整理する一区切りになるかもしれない。

 次男が亡くなり、3人兄弟の末っ子の私と、長男とがどういう関係を続けていくのか?これからの物語となる。
 そんなに、長い付き合いにはならないだろうし、話をする機会もそんなに多くはないだろう。私にも仕事があり、彼にも仕事や知人・家族等の付き合いなどがある。京都と奈良だから、その気になれば1時間半もあれば駆け付けられる距離にお互いが住んでいる。しかし、お互いの暮らし方に、今まではあまり立ち入ることなく過ごしてきた。これから、お互いどんな病気になるか?も分からないが、距離を置いた、何時でも話が出来る兄弟として、あり続けられたらと考えている。・・・今日は、久しぶりに、かって幼少の時代に暮らしていた、京都の伏見の府営住宅の平家のこと、両親のことなど思い出しながら、寝床につくことになりそうだ。

業務の中で、学ぶということ。

久しぶりの事業所報告となります。
 現在、ケアマネリングみなとは、スタッフ2名の体制となりました。特定事業所加算も外したので、二人はそれぞれの担当者宅や、サービス担当者会議等へと出かけていたりすることが多く、事務処理がどうしても後回しになります。

 事務作業を貯めてしまうと、後が大変です。できれば、日が経たない間に記録をしてしまうことが必要ですが、書き漏れてしまうことが出てくる。そこで、週単位・月単位で、しなければならない業務が出来ているかどうか?の点検見直し作業をする。特にモニタリング漏れがないよう注意をしています。
 また、管理者として、他のスタッフの業務の点検をどのようにするか?ということがある。事業所内での業務の見直し体制をどのように作っているか?が問われている。
 恥ずかしながら、現状ではそれぞれスタッフに任してしまっていて点検が不十分と言える。業務上の間違いや漏れが起こっても、それを2重にチェックできる体制があれば、結果的に改善の道を確保できる。自己点検に加えて、管理者として定期的に点検する時間を作ってゆかねば。

 それから、利用者の性格や個性をしっかり把握することが求められていると思う。利用者と言っても、自己主張が強い人や温和な人、すぐに感情をあらわに出しやすい人と、自分の気持ちを出さない人。意見を求めても、言わない人と必要以上に自分を通す人・・・本当に人さまざまと言えよう。
 そんな中で、今日はAさんのことで学んだことがある。
事のいきさつは以下のような次第。

 ・・・独り暮らしをしている90代のAさん宅に、訪問介護のB事業所がサービスに入っている。その日は、少し時間が遅れてヘルパーが訪問した。
Aさんよりケアマネに電話があり、このヘルパーは時間を早くくる。私が希望する時間より1時間くらい早い。自分たちの都合で動き、こちらの都合を考えない事業所だ。事業所を変えてほしい」と言ってこられた。
 調べてみると、確かに訪問時間が早くなっているが、ヘルパー事業所の話では、それについては事前に相談して利用者の了解を戴いている、とのことであった。

 Aさんは、一度火が付くと頻繁に電話で苦情をかけてこられる。3回目の電話がかかってきた。こちらも事務作業でやってしまいたいことが残っている。そんな場合、故意に居留守を使う。つまり、繰り返しの電話に対して事業所の業務を守るための奥の手です。
 暫くして、30分後に4回目の電話があり、受話器を取ると以下のように言われる。「ヘルパーの事業所を変更するといっても、大変だから別の事業所にするのはやっぱり止めておく。訪問時間の対応に不満はあるが、今の事業所に続けて来てもらうことにしたい」
 こうした、利用者の意向変更。意向がころころと変わることに対して、その都度対応をしていたら、どんどん振り回されることになる。断ったり、依頼したりを繰り返す中で、混乱に引き込まれてしまう。
 だから、この場合、すぐに結論を出さない対応で、成り行きが落ち着くまで様子を見ることにした。

 今回も、最初は事業所の変更を強く主張されたが、最後には、元通りに現状維持を希望されてきた。自分で納得されるまで、繰り返し意向が右へ左へと変わってしまう。しかし、それに振り回されずに、気長に傾聴するそうすれば、最後は自分で結論を出されることとなる。

 Aさんに対する対応を考えると、つくづく待つことの大切さを思う。
最終的な結論に至るまで、こちらの方が慌てづに待つことが必要なのだ。
(時に居留守を使うのは、あまりほめたやり方ではないが、繰り返しの電話攻勢に対しては一定の効果がある。)
 Aさん自体が、自分で結論を見つけられることにより、自己決定の強さを表現することが出来る。
 
・・・ケアマネ業務を通じた、利用者に対する対応により、日々多くのことを学んでいると思う。

人と自分を、何時でも温められる生き方をしよう。

 お正月に、恒例の橿原神宮へ初詣に行きました。
 ・・・といっても、お参りするというのじゃなく、一年のスタートを心に刻む儀式と言った方が良いかもしれない。
 拝むこともせず、お賽銭は,「御縁」=5円を担いで投げ入れた。今年は御神籤も引かず、淡々と神社周辺を家族で歩きました。(家族は、それぞれ御神籤を買って一喜一憂していましたが)小雨が降る三日の日だったので、何時もより人は少なめか?

 その中で、温かい体験をしました。
文字通り、暖かーいぬくもりを戴いたのです。
左記の写真を見るだけでも、伝わるでしょ?

 大きな神宮から切り倒したと思われる樹木の根っこを集めて、係の小父さんが広い境内で焚火をしてくれていたのです。
 あまりに温かいので、長い間火を囲んで寛ぎ、お陰で冷えた手や体の暖をとるひと時を持つことが出来ました。

 このような焚火サービスは、初めてでしたが,有り難かったですよ。
あらためて,係りの小父さんに御礼を言いたい気持ちです。

 そこで思うのです。
今年は、自分も含めて、人が暖められる1年を生きていこうと。

皆さん、どうぞ、どんどにあたってくりゃさんせー。


「走ることについて語るときに、僕の語ること」を読んで。

「走ることについて 語るときに 僕の語ること」
村上 春樹著
何故、この本を読もうと思ったのか?うまく思い出せない。
著者が、かなりの 走ることが好きな作家であることを知り、その走る理由について、語っている書物があること、その本が多くのランナーたちにより愛読されていることを知ったことが、読むきっかけになったことは間違いない。その情報を知ったのは、新聞記事・もしくはラジオ深夜便から得たものかもしれない。僕の情報源では、前述した新聞とラジオが主たる情報源になっているから。
 僕自身は、走ることができない。・・・もう2・3十年前なら話は変わるだろうが、少なくとも今は、満足に自分のペースで走ること自体が難しい。下肢筋力が低下していることに加え、体全体の運動機能が、飛んだり跳ねたりをやりこなす体力を持ち合わせていない。
 では何故、こうしたタイトルの本に興味を持ったのか?
一つは、村上春樹の本を、今まで全く読まなかったから、一度どんな語りなのか読んでみたくなったことがあげられる。最近、ノーベル文学賞候補に、常に彼の名前が登場して、選考される候補作家として取り上げられることが常となってきている。ならば、一度は彼の本を読んでみても良いのではないか?と考えたから、今回この本を紐解こうと考えた。そう思ったことは事実だと思う。
 もう一つ、僕の知人で、走ることを趣味としている人たちが、何人かいることが分かり、その人たちは走ることを一つの共通趣味として、コミュニケーションを築いていることを知った。だから、自分も走りたいとは思わないが、「如何してなんだろう?」という素朴な疑問を持ち、考え方生き方の一端を知りたいと思ったことも事実です。

 人間というものが、精神と肉体を持ち、両者の釣り合いの中で生きていることを思う時、肉体を研ぎすませたり、鍛えることで、少なからず精神的な領域においても何らかの影響を与えるものだということを生活の中で知っている。
 例えば、病気を持つ毎日の中では、生き方においても病の影響を受けた毎日の行動や物事の考え方が支配的とならざるを得ない。分かり易く考えて、がんに侵された人が考える人生観は、残された時間と生活の中で何ができるのか?を考えるだろう。その場合、人生を楽しむ要素というものはかなり限定されてしまうのではなかろうか?進行する病気に対して、有効な治療が期待できればその病気から逃れる可能性が残されているが、それさえもかなわない場合、余命期間で可能な活動はおのずと限定されたものになるだろう。
 残された命の灯を、肉体という仮住まいから解き放つものなのかどうか?それは分からないが、少なくとも、命ある限り死に近づく肉体を通して、自分自身の意識というものが最後の感覚までを司りながら、自分自身の人生を全うさせることとなる。
 そうした場合においても、思考し物事を感じて自分の頭の中に生きている証を刻印していくことになるのだが、体力がどのくらい残されているかどうか?の目安は重要なポイントだと思う。もしも、体を動かしたりできる能力があるならば、いわゆる気分転換が可能となり人間としての認識能力は最低必要ラインをクリヤしていると言えるだろう。
 本題に戻りたいが、村上さんにとって走るということは、小説家として仕事を続けるためには抜かすことができない行為として語られている。50代を超えても走り続け、60代になってもやめない動機には、もちろん走ることに積極的な喜びを感じているからといえるが、文章を書くことを生業とする彼の生き方に相通じている。
 フルマラソンウルトラマラソンにも定期的に参加する彼は、一方では長距離ランナーとしての趣向を持っていることは事実だと思われるが、そのことの意味は簡単に語れるものではないことをまず押さえておきたい。簡単に説明できないからこそ、彼はこの本を書き上げまとめあげたと言えるだろう。

 彼は、著作を書くベースとして、海外の地で滞在し、作品を書きかげていることが長い。その間、奥さん以外には、知人友人がいない環境を何故選んでいるのか?について考えるとき、彼は孤独を選んでいることを知る。当然、そうした地でも、彼は定期的に、計画的に走っている。それも一日10キロ、15キロといった距離をマイペースで。
こうしたランナーは、趣味で走っているとはいえ、単なるジョギングの枠を超えた走りの領域といえる。まして、マラソン大会に備えた1・2か月の走行距離は、フルマラソンなりを走りきる体力をつけるために、距離や走破時間も目標に合わせながらの毎日の走りとなる。早朝から走り出て、数時間をランニングの為に集中する。祭日だからと言って休みは取らず、あくまでも目標のレースに参加し、無事完走することを想定して、スケジュール管理される。時には、専門家のコーチにも依頼して、自分の走りに関連する助言=コーチングをマネジメントし、レースから逸脱することがないように自分の走りに対して管理を徹底している。
 こうした彼の走行姿勢・走ることのこだわりは、単なる健康ランニングを超えたものとしてとらえている。鉄人レースに出たこともあり、泳いだり自転車に乗ったりもできる。しかし、やっぱり「走ること・それも長距離走が自分に最適である」と彼は語っている。
 おそらく、これからも、文章を書くこと、走ることは続けていく人生だと想像する。その人生がどうなのか?それは人が評価する。傍のやじ馬たちが何と言おうと、彼は毎日を走り続け、そして文学を書き続けていくのではなかろうか?そこにどんな意味があるのか?それは、私には分からない。しかし、彼にとって走ることは生活の一部であり、ものを書き考えることもまた、生活行為の重要な一部分であり続ける。
 最後に、彼があとがきに書いている言葉を添えて、終わりにしておきたい。
「僕は、この本を「メモワール」のようなものだと考えている。個人史というほど大層なものでもないが、エッセイというタイトルでくくるには無理がある。・・・僕としては、「走る」という行為を媒介にして、自分がこの4半世紀ばかりを小説家として、一人の「どこにでもいる人間」として、どのように生きてきたか、自分なりに整理してみたかった。
 この次は、また少し期間をおいて、彼の本を読んでみようと考えている。

今年もパオッコ遠距離介護セミナーに招かれ参加しました。

数えること、今年で7回目の参加となります。
 今年は、Ⅰ部の講演が長田久雄氏(医学博士・桜美林大学大学院老年学研究科教授)があり、Ⅱ部で、体験者と専門家が語る!お悩み軽減!遠距離介護アドバイストークが企画されていた。

 僕が招かれたのはⅡ部ですが、約90分興味深い事例とやり取りがなされていました。
 第1の事例では…認知症が疑われる遠距離介護の父親に対して、車の運転の危険性を伝え、どのようにして運転をやめさせたら良いか?悩む娘さんとその家族の現状が語られていました。
 どの時点で、車の運転をやめてもらうことが得策なのか?娘がいくら説得しようとしても、簡単に忠告を聞く男親はいないでしょう。
まして、自分の運転能力に疑問を持たない親の場合、(今まで大きな事故もなく、車の運転を続けてこれた人であるほど)「やめろ」と肉親から言われると、それに対して激しい抵抗をすることが予想される。
 ましてや、他に趣味がなく、車を運転して遠出したり買い物したりを楽しみたいお年寄りにとっては、その行動手段を取り上げられることは、まるで自分の老後の生きがいの手立てをもぎ取られるように感じてしまうことでしょう。

 しかし、運転を続けることにより、大きな事故の引き金になってしまう悲劇が、日本社会のあちこちで起こっていることを踏まえ、当事者たる家族は、尋常ではない悩みを抱えてしまうのです。

 →この事例の場合、出来ればかかりつけのドクターなどに間に入ってもらい、運転の危険性を説明して、免許の返上が得策であることを伝えてもらうことが良いかもしれない。医者の言うことなら、やむなく従う可能性があるからです。
 こういう場合の医者の威厳を、上手に使わせていただくことも一つの知恵です。
 しかし、それでも効果がなく、親戚知人等誰に頼んでも本人を説き伏せることが出来ない場合、警察にお願いして話をしてもらうことも選択肢の一つと考えられる。
 
 高齢者の運転問題は、今後ますます、日本の社会的問題として深刻化する可能性がある。その意味では、技術的な自動運転装置の開発や、安全装置、事故防止システムの早期運用が強く求められていると言えるでしょう。
 
 私個人の意見としては、都会に住んでいる者として、車に乗らなくても十分最寄りの交通機関を活用すれば、生活や活動に困ることはないと考えている。現実に、ここ10年近く、マイカーなしで生活が維持できており、「カーシェアリング」を活用すれば、必要な時に必要な時間だけ車が乗れる方法も取れることが出来る。車を所有したりガソリン代・税金の支払いを考えれば、年間かなりの経費節減が出来ている。
 こうして、車を所有しない、車を運転しない暮らしは、そんなにつまらないものでもないことを実感している。でも、一方では、車がない生活が考えられない、車を前提にして生活をされてきた人たちがおられる。彼らにとっては、死ぬまで車を使い続けて暮らしたい、そう感じていることでしょう。
 この問題、一筋縄では語れない様々な問題をはらんでいます。
いろんな立場の意見を聞きながら、お互いの立場を理解しつつ、話し合いを積み重ねていけることを願うものです。強制ではなく、納得こそ必要ですから。

 第2の事例については、時間がないのでまた次の機会に書くことにします。
本日はここまで。